大久野島毒ガス資料館

2007年11月14日訪問

【大久野島を訪ねて】
 山陽新幹線を三原駅で降り、呉線に乗り換えて海を見ながらおよそ20分で忠海に着く。
 忠海港から船で10数分で大久野島に渡ることができる。

           

 大久野島は、広島県竹原市忠海町に属する島であるが、別称をいくつも持っている「地図から消された島」「毒ガスの島」「ウサギの島」。
 軍港呉に近い大久野島には、1900年から陸軍の要塞の任が与えられ、砲台が築かれた。そして、1929年から終戦までは毒ガスが製造された。毒ガスは国際法で禁止されていることもあって極秘扱いで、地図では空白にされ、対岸を走る列車は鎧窓を下ろすよう命じられたという。

           

 戦後、毒ガス工場と関連施設は米軍によって処分され、1963年からは国民休暇村(現在は休暇村)として、宿泊施設や温泉もあるレジャーの島になっている。実験動物として飼われていたウサギが繁殖し、近年は野生のウサギが暮らす島としても親しまれている。島には要塞の名残をとどめる砲台跡や弾薬庫や発電所の遺構があり、竹原市によって毒ガス資料館も設置されているので、修学旅行や社会見学で、野外活動や平和学習の場として活用されている。広島で被害を学び、大久野島で加害を学ばせるという趣旨の修学旅行も行われている。
 だが、ほんとうに大久野島へ行けば加害が学べるのか。

【大久野島毒ガス資料館】

              

資料館の入り口にはこう書かれている。

     大久野島は訴える
     戦争の悲惨さを
     平和の尊さを
     生命の重さを
     この歴史を忘れないために
     二度と再び繰り返さないために
     いつまでも平和であり続けるために

 この記述で、この資料館が平和を指向して展示していることが分かる。
 その続きに毒ガス製造についての説明があり、
「各種の毒ガス製造作業や戦後の処理作業で被毒した多くの人が亡くなっています。」
と書かれている。毒ガスが使用された相手国の人に関しての言及はない。
 つまり、上記の「戦争の悲惨さ」「生命の重さ」とは、この島で働いた人たちの悲惨さであり、生命であることがわかる。さらにその下に、「おそるべき毒ガスの実態」「いまわしい歴史」とあるのも、この島で働いた人にとって「おそるべき」「いまわしい」ということになる。
 展示室に入る。中は撮影禁止である。事務室に申し出て、竹原市役所にまで電話して撮影許可を得ようとしたが、決裁がもらえないということで許可は得られなかった。

【働いた人の被害中心の展示】
 展示物は、毒ガス工場があった当時のさまざまな遺物が中心である。それらの展示が最も強く訴えていることは、そこで労働して(させられて)いた人々の被害なのである。もちろん、その被害は見過ごしてよいものではない。国の隅々まで総動員をかけ、しかも国際法に違反する軍機と言うことで、作業の危険性も十分知らされていなかったという事実は追求されなければならない。
 だが、そうやって製造された毒ガスがどう使われたか、使われようとしていたのかを追及することも、それと同じぐらい重要なはずだ。
展示室で、毒ガスの使用については一つのコーナーがあり、日本軍の写真などが展示されている。そのコーナーの説明には、こう書かれている。

 この島で作られた毒ガスが実戦でどのように使われたかについてはまだ十分に明らかになってはいません。この島で起こった悲劇は、一地域の問題にとどまることなく、戦争という悲劇として、私たち一人ひとりが忘れてはならない事実でしょう。

 たしかに、十分明らかではないのだろう。それでも、少しでも分かっていること、懸念されることなどを書けば、見学者は毒ガス攻撃された側の人に思いをはせることができるであろう。だが、そうはせずに、説明文の後段ではいきなり一般化してしまっている。「戦争という悲劇」「私たち一人ひとり」と括ってしまったのでは、毒ガスの持っている問題点があいまいになる。
 研修室という部屋では、ビデオを流してあった。壁にはパネルが展示され、そこには毒ガスによる被害の写真がある。凄惨な遺体の写真もあり、毒ガスという兵器の非人間性、残虐性が語られる。だがその写真は中東戦争のもの。たしかに「一地域の問題にとどまることなく」なのは分かるが、大久野島での出来事とあまりに離れてはいないだろうか。
 資料館脇の屋外展示場には、「陶磁器製毒ガス製造器具」が保存されている。

           

 その説明には
「毒ガス製造による悲惨な歴史を後世に伝えるため」と書いてある。「毒ガスによる悲惨」ではなくて、「毒ガス製造による悲惨」なのである。この言葉からも、視点はここで働いた人に当てられていることが明確である。

             

 地元竹原市には、「毒ガス島歴史研究所」という機関があり、会員募集のポスターが忠海駅の待合室に掲示されていた。それによると「戦争の被害・加害の真実を広く伝える平和研究機関として……」活動し、「大久野島での毒ガス製造や運搬、または戦後処理・遺棄毒ガスの情報」の聞き取り活動をしているそうだ。ここでも、国外の被害については触れられていない。ポスターには「毒ガス障害者」という表現が見られる。製造に関わって被害にあった人のことだろう。「毒ガス被害者」ではないのだ。

           

 働かされた人たちは、自分たちは知らされていなかった、騙されていた、自分もひどい目にあったと言いたいだろう。それは分かる。だが、我が手で作り出したモノが遠い誰かに危害をもたらしたことにも思いがいたらなければならないのではないだろうか。本意ではなかったとしても、加担していたのは事実ではないか。そこをあいまいにしたままでは加害を教える場としての大久野島の意義はない。被害は自分、加害は他者、という思考回路である限り、加害の問題に取り組んだことにはならない。

【中島みゆきの問題意識】
大久野島の帰り道、頭に浮かんだ歌がある。中島みゆきの「4.2.3.」という歌だ。(アルバム「私の子供になりなさい」所収)
 1996年にペルー日本大使公邸占拠事件が起きた。革命運動グループが621人もの人質をとって立て籠もり、127日間もの占拠の末、翌年の4月23日にペルー軍の特殊部隊が強行突入して人質は解放、犯人は全員射殺、という事件だった。
 歌では、仕事で泊まっているホテルの、たまたまつけたテレビに突入の映像が流れている。
「長い間に見慣れてしまっていた白く平たい石造りの建物から 朱色の炎と石くれが噴きあがる瞬間だった」
 見ている「私」は、「誰が何を伝えようとしているのか それだけに耳を傾けた」
人質が次々に救出される様子を見ている「私」の目に「黒く煤けた兵士」が担架で運び出される映像が飛び込む。中継のリポーターは「日本人が手を振っていますとだけ嬉々として語り続ける」。運ばれた兵士のことは「ひと言も触れない」。そして「日本人の家族たちを喜ばせるためのリポートは 切れることなく続く」。
 「私」は考える。
 「あの兵士にも父も母も妻も子もあるのではなかったろうか」
 「見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
 救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう」
 

そして、こう歌うのだ。

 「この国は危ない
  何度でも同じあやまちを繰り返すだろう
  平和を望むといいながらも
  日本と名の付いていないものにならば
  いくらだって冷たくなれるのだろう」。
 「私の中ではこの国への怖れが
  黒い炎を噴きあげはじめた」


 中島みゆきがおそれているようなことを、私たちは平和教育の中で、おこなってはいないだろうか。

【日本の加害を教えるために】
 大久野島はかつての負の遺産を、いまは観光資源として活用している。要塞や毒ガス工場の跡地は学習の素材として、実験動物にルーツを持つ野生化したウサギたちは平和な島のシンボルとして、もともとの美しい自然とともにこの島に人々を招くのに役立っている。ただ、島に来るだけでは、日本の戦争加害を学ぶことにはならない。

         

 広島県教組竹原支区平和教育部会が編集した「毒ガス島」という資料集や「おおくのしま」という教材集を見ると、大久野島の資料だけでなく、日本軍が中国でどう毒ガスを使ったかを取りあげて授業している。中国側の資料も使っている。やはり、そういう補充をする必要があるのだ。

                     

 大久野島に行きさえすれば加害の学習ができるものではないが、加害を学ぶきっかけにはなる。ただ、きっかけならほかにもある。広島にもあるのだ。要は、何らかの事象を取りあげて平和学習を組むときに、教える側が加害の視点を持っているかどうかであろう。
 「大久野島に子どもを連れて行こう」と考えたときに、教師には加害を教えようとする意図があるだろう。それを確かなものにするために、事前事後の学習をしっかり準備しなければならない。


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